1988年
7月末
おやぶんは病院のベッドに横たわっていた。
1週間程前に筑波の練習走行で転倒し、左鎖骨を複雑骨折していたのだ。

その時に、鈴鹿4時間耐久の結果を新聞で知り愕然とする。秩父の某峠を一緒に走っていた
Y選手がなんと580台余の中で5位に入賞していたのである。
そして「俺も来年は4時間耐久に出る!奴が5位になれるなら俺だって!!」と意を決したのである。
当時は甘っちょろく「目標はWGP!」なんて言っていたが、夢物語なのは自分でもわかっていた。
現実的な目標を見つけたのである。
勿論ただ参加すれば良いのではない。参加するからには予選を通過し、レースを完走する事が
目標だ。しかし、現実は甘くない。
空前のレースブームであり、4時間耐久の予選通過率は約10%であった…。

おまけに自己所有のマシンはホンダRS125Rである。
当然このマシンでは4耐には出られない。
そこで当時の4耐での主流マシンであったNSR250RK(HRCのFVコンプリート)の翌年型を
新車で購入する事にした。
更に無謀にもトランスポーター(ハイエース)も、ディーゼルの新型車を発注してしまった。
なんと当時トランスポーターとして使っていたハイエースはチューニングしてあった為に
ハイオク仕様となっていた事から、ガソリン代を考えての大英断であった。
更に問題は続く。耐久レースは独りでは出れない。
相棒が必要なのだが、レース開始後約4年経っていても思い当たるような人材は居なかった。
1989年
それでも「何とかなるでしょ!」ぐらいの考えでいたのだが、相棒にと考えていたライダーが
所属チームの問題により出走不可能となってしまった。
更にレース仲間の事故死もあり、参加自体を諦めかけていた…。
しかし当時H社関連の会社に勤めていた事もあり、H社の自己啓発グループより出場のオファーが!
奇跡だと言っても良いだろう…。最後までチャンスを探していた事が奇跡を呼んだのだ!
こうして念願だった『4耐』への参加が決まった。
レースまでの時間は限られている。そして鈴鹿のライセンスも所持していない。
そんな状況でのスタートとなった。
結局『4耐』までに、練習走行が5回・レースに1回出走(当然予選落ち!)
しか走行の機会を取る事が出来なかった。
ほぼ徹夜で鈴鹿入りし、練習時間の合間に仮眠をとる。
しかし密度の濃い練習をするために、集中力が身に付いたような気がする…。
7月
参加台数596台
4耐史上最高の参加台数だったこの年に、おやぶん は初めて【鈴鹿4時間耐久】に参加した。
それも、バブリーな時代背景によって『ゼネラル石油』というビッグスポンサーに後押しされてである。
マシンは発売間もないVFR400(NC30)を駆り、若林芳典選手と組む事となった。
チーム名は【ゼネラルMACH-G100&MSP】である。

決勝のグリッドは60台、予選通過率は約10%だったのだが、総合32位(SP400クラス12位)にて
決勝に臨む事となった。
現在と違って、どちらか一方のライダーのベストタイムで通過となる予選では、
若林選手のタイムで通過が確定していた為、おやぶんはタイムアタックを禁止されてしまった。
これも直前のテスト走行で転倒を喫していたからだ。
転倒するまでは若林選手と同程度の好タイム(前年の同レースでの予選5番手相当)を
記録していたのだが、監督判断ゆえに涙をのんで従う事となった。
結局、義務周回数の3周+αのみの走行で、予選時のチェッカーさえ受ける事もなく終了したのだ。
無念である…。非常に無念である!
だがしかし、この事が未だに鈴鹿に懸ける現在のおやぶんの根底となっているのだ。

決勝の作戦は若林選手がタイムを稼ぎ、おやぶんが順位をキープするという内容だった。
しかし、スタート直前に降り出した雨や、乾湿混同している路面に翻弄される事となるのである。
目まぐるしく変化する路面状況は、走っているライダーさえも把握する事が出来ない程であった。
有力チームの多くが濡れた路面に足元をすくわれ転倒している中で、
若林選手とおやぶんの2人は最後まで冷静さを失う事は無かった。
全てのコーナーでの状況変化を捉えつつ、全力で走り続けるだけだ。
狂ったように飛ばす【WAKA!】と、マシンをいたわりながらアベレージを稼ぐ【おやぶん
まるでバリバリ伝説の『グンと秀吉』の様である。
ラップタイムモニターの表示も繰り返し訂正が行なわれるような状況の中で、
順位すら分からないままに全力で走行を続ける。
残り時間5分
すでに走行を終えたおやぶんがピット前に出てきた。
『4耐』に出ると心に決めてから1年間の出来事が走馬灯のように駆け巡る…。
『順位なんか関係ない!』熱いものがこみ上げ、支えてくれたスタッフの背中に
思わずしがみつき、涙を流す…。
そしてチェッカー。
結局は総合16位、そしてSP400クラスでは4位というリザルトを残したのである。
レース終了直後は嬉しかった…。
しかし、時間が経つと悔しいのである。
予選はチェッカーも受けていないし、決勝も我慢の走行をしたのみである。
ライダーが俺である必要など何処にもなかった。
結果が良かっただけに、なおさら虚しい……………
もう2度とあんな虚しさなど味わいたくはない!! しかし…
1990年
体調不良の為に勤務していた会社を退社。同時にチームも離れる事となる。
しかし鈴鹿への想いは尽きない…。
そして…
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